中年期から始めよう!
「いい人生」を生きるための準備

 定年後をどのように生きるか、そのために今しなければならないことは・・・について、わたしなりの考え方をHP上にアップしたいと思っている時に、某大手企業に長年お勤めで今年定年退職されたある方から、一冊の本をいただきました。

 −−− 人は「閑」の中でのみ真に自分の人生を生きることができる。
    人は「閑」の中でしか真の幸福を得られない。 −−−

 その本は、中野孝次著『「閑」のある生き方』という本でした。
 「閑」とは、ひまな時間。また、ゆったりと落ち着いてしずかなさまをいいます。

 中野氏は、西行や良寛の簡素な生き方から日本人の生活を問い直した「清貧の思想」でも知られ、古典を読み解き、人生とは何かを追求する作風で知られ、「セネカ 現代人への手紙」などの作品を残された方です。

 人は20代初めから60まで、人生の盛りのときを40年も組織というものの中で過ごす。
 世の中の人が自分を見るのもその組織の中でそういう仕事をしている人としてであり、世の中での立場は、名刺の肩書きどおり、組織の名とその中での地位が示すものであって、それだからこそ社会も信用し、自分もその立場から世の中を見、世の人と交わり、社会での存在意義を得ていた。組織の名と肩書きとが自分の全部だった。
 定年と同時にその懐かしい組織を離れ、肩書きを失い、一個のただの人となる。
 いままで通勤地獄と呪った朝夕の長時間かけての通勤も、長年の習慣ともなれば身についた生理的必然となっていたことに気づかされる。
 何よりも自分にこうしてくれと頼む人がもういない。もうその組織から必要とされる存在ではなくなったのだ、という自覚を、来る日ごとに確認する。
 これがショックでない人は殆どいないであろう。組織の中である程度の責任ある地位にいた人ならなおさらである。

 実際、わたしも定年という形ではなかったが、長年勤めた会社が不本意ながら解散となったときは社会から見放された感じがし、暫くは毎朝起きていた時間に起き、毎日乗っていた電車に乗り、その習慣となっていた生活形態から抜け出すのに時間がかかりました。

 老いは誰にもひとしくやってくるもの。
 年をとるということは、たしかに体力が衰えていくことであり、生気をうしなっていくことではあるけれど、それだけではなく、生涯のそれぞれの段階がそうであるように、その固有の価値を、その固有の魅力を、その固有の知恵を、その固有の悲しみをもつ。
 問題は萎えること自体になく、萎えたら萎えたなりにそれを認め、それを受容し、それにふさわしい生活をするかどうかなのだ。
 この国にあって老年は祝福すべき時だと思うのは、肉体の衰えや社会の空気やいやなことを補ってあまりある恩寵(おんちょう)が老年にはあるからだ。
 それは何かといえば、今や時間の全てが自分のものであって、それをどう使おうが自分の自由だということだ。これこそ人が長い生涯を生きてきた最後に与えられる最高の恩恵でなくてなんであろ。
 壮年の時の失われたものを歎いても意味はないのだ。今を受け入れねばならない。今を受け入れる心さえあれば、老年はそれ自体なんと心豊かなたのしい時であるか。
 何をしてもよく、何をしないでも誰かに非難されることはない。自分の好きなことに一日中熱中していられるくらい幸福なことがあろうか。
 既に社会に対する努めと義務は果たした。今は自分という者一個のために生きるべき時だ。生きることを許されている時だ。この大きな恩恵に比べたら身体が萎えたこととか、収入が減ったことなど何であろう。

 老いは決して嘆き悲しむことでない。
 全てが自由な時間「閑」それを楽しまなくて何を楽しむか。

 人生の後半を、何にもとらわれず、自由に人生を愉しむために必要なことは、生活を単純化し、軸足を「社会」から「自分」へ、マインドからハートへ、社会から自然へと移して閑暇のある生き方に戻るのがよい。これこそ東洋人が昔から理想としてきた心身永閑の生き方なのだと中野氏はいっている。

 彼は彼の友人である、詩人・加島祥造氏の「老子と暮す」という本の中の一節を引用している。

 −−−あなたはいつか、社会という車を乗り捨てて、自分の足で歩き出す−−−そのときのくるのをねらいつつ、生きてゆくのがオモシロイ。

 わたしが言いたいのはそのことにつきる。と・・・

 常々わたしが思っている、「後半生をゆっくりゆっくり心豊かに送りたい」の言葉を若いシニア世代に発信しているのは、まさにこのことなのです。まるで同士(中野氏や加島氏から、同じにするなと一笑に付されそうですが・・・)を得たような気がしました。

 「閑」という境地は、中野氏が「清貧の思想」以来ずっと探りたずねてきたもので、本書では、彼はそれを甥(龍太郎氏)に語り聞かせる言葉で書いてあります。「今ココニ」生きることを楽しむ−−−それが根本の生活哲理であり、それには「閑」のある生き方を中年期から意識せよというのが、この本の中心課題だろうと思います。

 本書の最後では、
 「希望を持てということだよ。龍太郎君。老年は人生の仕上げの時なのだ」と結んでいます。

 中野氏は晩年精力的に執筆活動を行っています。その仕事には「人に勇気と安心を与えたい」という使命感がこもっていました。
 彼自身、「閑」のある生き方を甥(龍太郎君)に語りかけると同時に、「閑」にはほど遠い自分自身への語りかけにもなっていたのであろうと思います。

中野氏が提唱した『「閑」のある生き方』は、老後をどう生きるか、それには中年期をどのように過ごせばいいのかという、一つの事例です。

では、実際『ためらわずに開こう!「第二の青春」への扉』では、現在定年を前後された方達のご意見を聞いてみました。



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