さまざまな愛・・・


禁じられた愛

数年前、映画館でクリント・イーストウッドが製作、監督、主演の3役を務めた「マディソン郡の橋」を観ました。

 マディソン郡の橋を舞台に繰り広げられる甘く切ないラブストーリー。

 通りがかりのカメラマン(クリント・イーストウッド)と平凡な家庭の主婦(メリル・ストリープ)が恋に堕ちて行く4日間。

 別れの日が来たそのとき、家庭を捨て、町を捨て、恋した男の人に着いて行くことを彼女は拒みます。

 愛する人を、「平穏な生活の破壊者」としたくないがために、ここにとどまって、ずっとあなたを愛していく、と彼女は決心するのです。

 彼女は美人でも知的でもなく、田舎町に住む平凡な一主婦。

 彼女は彼に着いていきたかったのです。たった今までその準備をしていて、その決心をしていました。

 けれど最終的には、彼に着いていかないという結論を出します。それは彼女にとって「正しい判断」だったのか、彼女は「我慢する」方を選んだのです。

 その時、彼女は、心から彼を愛し、決心するものだけがもつ強さを感じました。

 許されないと知りつつも禁断の恋に堕ちてしまうラブストーリー。

 別れの道を選んだ彼女にほんとうの愛を見た思いがして、ラストシーンは思い切り泣きました。


 日本でも「失楽園」渡辺淳一作、「 海猫 」谷村志穂、「ひとひらの雪」渡辺淳一などの愛をテーマにした作品が数多くありますが、禁じられた愛の結末は全てパッピーエンドでは終わりません。

 自分たちの愛する回りの人達を傷つけ、尚かつ自分たちも傷つきながら愛を貫く。

 それは“切れっぱしの情熱”などではなく、“情”と“愛”と“憎しみ”を織り込みながら、魂が求め合うような愛の行方・・・

 「愛すること」「愛されること」の意味を、今一度考えさせられます。


 男性・女性・既婚・未婚に関わらず大好きなパートナーがいてもたまに違った新鮮さを求めてしまう事ってありますよね。

 毎日、毎日、同じ朝を迎え、同じ道を歩き、同じような仕事をし、同じようにあいそ笑いをし、同じようにタメ息をつきつつ帰る。帰り着いた家庭の中までも、休む間もなく日常の家事に追われ、泥のように眠りにつく。

 そんな生活を続けていると息づまる思いがし、心が惰性でひからび、砂漠のようにカサカサになっていくような気がします。

 こんなとき、突然すべてを忘れて激しく通りゆくスコールの如く、雨粒に打たれるがままにしたいという思いにかられます。

 爽快な雨が乾ききった心に染み通り、しっとりした潤いが体中に行きわたる心地よさ・・・秘密めいたひと時の出会いはこんな慈雨にも似たものがあります。

 許されない恋は、将来が見えない綱渡りのような危うげな恋愛。せつなさや苦しさもいっぱいあるけれど、愛するよろこび、愛されるよろこびは、何ものにもかえがたいものです。

 相手を信じて、相手の心を理解することが、自分自身の成長にもなるでしょう。

 でも、傷つき傷つけ合う許されない愛。祝福されない禁じられた愛には悲惨な現実が待っていることを覚悟しましょう。

 あなたの愛した人、心から情熱を傾けた人は、悲しいことにその人にとってあなたは一番ではないのですから・・・

 ほんとうに自分を必要としている人は・・・心から愛する人は・・・あなたの笑顔、優しさがあなたの大切な人にとって太陽なのです。

 たまには外に出て、パートナーとは違う人と会ってみるのも一概に悪いとは言えませんが、やはりいつでも迎え入れてくれる暖かい懐があってのことだと思います。

 「燃えるような恋がしたい!」「純粋で無垢な気持ちで人を愛したい!」そんな純愛にも似た情熱を幾つになっても持ち続けるのは素敵なことです。いつも煌めく若々しいあなたでいてください。



   たがいに夢中になった状態、頭に血が上がった状態を愛の強さの証拠だと思いこむ。
   だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを
                      示しているにすぎないかもしれないのだ。

   愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、
      愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。

                  −−−エーリッヒ・フロム(ドイツ 心理学者・哲学者)−−−