インドのバラモン教の祭典、『ブラーフマナ』にこんな神話があります。
世界で最初の人間であったヤマとヤミーは仲の良い夫婦でしたが、やがて夫のマヤが死んでしまうことになります。
神々はヤミーにヤマを忘れさせようと慰めますが、「ヤマは、今日死んでしまった・・・」といつまでも悲しみに泣き続けるばかりです。
その当時はまだ夜というものがなく、ただ昼の時間が続くばかりだったのです。
それを見かねた神々は、
「このままではヤミーは、ずっとヤマを忘れることがないであろう。ヤミーのために夜をつくってやることにしよう」
と相談して、この世界に夜の時間を与えることにしました。
すると、そこではじめて翌日ができることになり、マミーにとってヤマの死は昨日のことになったのです。
そして、そんな昼夜を繰りかえすうちに、ヤミーはやっとヤマが死んだ悲しみを忘れることができたのです。
だから人は、月日によって悲しみを忘れることができるのだということです。
私たちが味わう悲しみのなかで、愛する人を失うことほど、大きなものはないでしょう。
それは満たされていた心のなかに大きな空洞を生み出し、いつまでも埋まることのない虚しさを抱えることになってしまうのです。
でも、いつまでも嘆き悲しんでばかりいることは、自分ばかりか愛する人にとっても意味があることではありません。
いつかはまた前に向かって進んでいかなければならないのです。
どうしようもない悲しみが大きいほど、私たちは優しくなれますし、耐えることを経験することで、もっと大きく成長できるのです。
夜が来るのは、悲しみや苦痛を静かに味わい忘れていくためのようですね。
はじまりがあるから終わりもあるし、終わりがあるからこそ、新たなはじまりがあるのです。
失った悲しみは、私たちをもっともっと強く優しくしてくれるためにあるのですよね。