この世でいちばん美しい花を知っているでしょうか。

それはバラ? チューリップ? それとも桜?

いいえ、それは、今から数千年前のエジプトの王、ツタンカーメンの棺のなかに入っていた花なのです。

若くして王位についたツタンカーメン王は、18歳でこの世を去ることになります。
そのときすでに彼には、12歳の妃がいたそうです。

ツタンカーメンの墓のなかには、高価な黄金や財宝がたくさんみつかっています。
そのなかに、幼いお妃さまが入れたと思われる、1本の花もあったといいます。

もちろん発見されたときには、枯れてしおれて、原型をとどめなかった姿だったでしょう。

でも、お妃さまは、どんな気持ちでその花を、王の墓に添えたのでしょう。結婚や愛の意味も、まだよくはわかっていなかったかも知れませんが、どんな財宝よりも、その花は、美しく輝いていたのではないでしょうか。

私は、そう思います。


この世でいちばんすばらしいことばを知っているでしょうか。

それはもちろん、「ありがとう」ということばです。

誰かに何かをしてもらったとき、よく私たちは、「すみません」と言ったりします。

これは、「済む」を打ち消した「済まない」を丁寧に言い換えたことばで、相手に対して、自分の気持ちが済まないということを伝えるときに使ったものです。

つまり、そんなことをしてもらって、自分の気持ちが済まない、自分は、そんなことをしていただける人間ではない、といったニュアンスが、どこかに含まれているようですね。
 
謙遜やへりくだりが美徳とされていた日本人には、意味があることばだったのでしょうが、よく考えてみると、「すみません」と言う度に、自分の存在は、それほど大したものではないと、自分を否定しているようか感じににもなってしまいます。

誰かから「すみません」と言われても、あまり心に響くものはありませんね。

その点、「ありがとう」「ありがとうございます」ということばはいかがでしょうか。

言ったほうも、言われたほうも、何となく、清清しい気持ちになっていたりはしないでしょうか。

それは言ったときに感謝を伝えているから。
「有難い」ことは、ただ、目の前の人にしてもらったことだけではなくて、自分がこの世界に存在していること、今まで生かされてきたことまでも含めての感謝だということ。

そのたびに、自分の存在、相手の存在、そして、この世界のすばらしさを受け容れていることになるのですね。

私は、そう思います。

この世でいちばん豊かな場所を知っているでしょうか。

銀行の金庫、造幣局、大金持ちの家のなか?

いいえ、そんな場所は、いくら豊かだといっても、限界があります。
そんな場所よりも、もっと豊かになれる可能性があって、限界もないし、お金だけではなく、さまざまな面においても、豊かになれる場所があります。

それは、私たちの心のなかです。

そう、これからどう生きるのか、何を楽しむのか、何を作り出していくのか。
そのすべてが無限の可能性を持っている場所です。

ただ、それをうまく活かしていくかどうかは自分次第ですね。

美しいもの、すばらしいもの、豊かなもの。
本当は、それらはどこを探しても見つかりません。

だって、すべてはあなたのなかにあるのですから。

そしてそれは、他をさがすのをやめて、自分自身を生きることを楽しむときに見えてくるものなのですよね。