釈迦の十大弟子に数えられる、舎利佛と目蓮は、その前世ではどちらも優れた画家だったそうです。
あるとき、この二人の画家に、国王が宮殿の向かい合った大理石の壁を飾る絵を描くよう命じました。
舎利佛の前世の画家は、自分に与えられた壁面に向うと、すぐに筆をとり、全身全霊を込めて絵を描きはじめました。
ところが、後に目蓮として生まれ変わる画家の方は、大理石の壁に向かい合うと、一生懸命に布で磨きだしたのです。
舎利佛の画家は、毎日、絵を描きすすめていきます。
次第に、見事な山水の風景が大きな壁一面に現れ、どんどん完成に近づいていきます。
一方、目蓮の画家は、いつまでたっても壁を磨き続けるばかりでした。
命じた期日になり、国王は多くの家来を引き連れ、二人の絵を見にやってこられました。
「見事だ...」
国王は、まず舎利佛の絵をご覧になり、そのあまりのすばらしさに心を打たれ、お褒めの言葉をかけられました。
次に、向いの壁の目蓮の絵に目を移した国王は、そこに何も描かれていないことに気づきました。
当然国王は、激怒し、近くにいた目蓮を見つけると厳しく問いつめました。
「お前は、一体どういうつもりだ。なぜ、命じた通りに絵を描かなかったのだ」
すると目蓮は、国王の前にひれ伏しながら、こんなことを言いました。
「どうぞ王様、お怒りをお鎮めください。そして、もう一度、静かにこの壁をご覧ください」
国王は、まだ怒りに身を震わせていましたが、彼ほどの名の通った画家がそうまで言うには、何かあると思い直して、再び何も描かれていない壁面に目をやりました。
するとどうでしょう。
目蓮が丁寧に磨き上げた壁面には、その向いの舎利佛が描いた壁画が、見事に映っているのです。
しかも、壁に映った絵は、実際の絵よりも、さらに奥深い味わいをたたえ、この世のものとは思えないような、幽谷の趣を醸し出しています。
国王は、その美しさに我を忘れ、じっと大理石の壁に心を奪われているばかりです。
その場に居合わせた家来達も、ただ息を飲んでその絵に見入っていたということです。
「明」という字は、「日」と「月」が組み合わされてできています。
「日」つまり太陽のように自ら光を放っている存在と、「月」のように、太陽の光を受け、美しく輝いている存在。
その両方があって、はじめて本当に、明るいということになるのかも知れませんね。
職場や家庭などでも、「日」のように元気に燃えるように光を出している人と、「月」のようにその光を受けてエネルギーの流れを、いい方向へ運ぶことができる人がいるときに、すべてがうまくまとまり「明るい」場所になるようです。
私たちの人生は、何もかもうまくいっていて順調なときと、ちょっと躓いたり失敗して落ち込むことの繰り返しです。
でも、そんなふうに「日」のように燃えて輝いているときと、「月」のように静かに自分を見つめ直すときがあるからこそ、本当の明るさが手に入るのですね。
私たちが出会うどんなことだって、人生という刺繍に輝きと味わいを織りなす、すばらしいことなのです。