たとえば、小さな頃に犬に噛まれたという経験をしたとします。
そのときの痛みや怖さは、いつまでも心のなかに残っているのかも知れません。

大人になった今でも、犬が怖くて近づけないという人もいるでしょう。
それが小さな犬で、恐れることはないのだとしても、心のどこかには犬を見るたびに、噛まれたときの恐怖が、また蘇ってくるのです。

そんな恐怖を抱いていると、犬もまた恐怖を感じてしまい、こちらに向かって吠えてくるということもあるでしょう。
私たちは、ますます犬に対して恐怖を感じることになりますが、その現実は、自分自身が創りあげたものだと言えるのではないでしょうか。

恐怖は、そこから逃げだそうとすると、ますます私たちを追いかけてくるもののようなのです。


本来、恐怖というものは、私たちにとって役に立つものなのです。
それは肉体的あるいは心理的に危険を察知し、私たちに警報を与えてくれるためにあるのです。

この警報をキャッチすると、身体のなかでは交感神経が活性化したり、内分泌系ではアドレナリンなどのホルモンが分泌され、危険に対処できるように神経が敏感になったり、筋肉が緊張したりするのです。

だからこそ私たちは、それ以上の危険を避け、生き延びていくことができるのですね。

ところが、ときに私たちは実際の状況ではなく、自分の心のなかにある危険に反応してしまうことがあるようです。
先ほど見た、犬に対する恐怖のように、もう恐れる必要もない場合にさえ、いつまでも条件づけられた恐怖を持ち続けることさえあるのです。

そんな恐怖は、私たちが小さくてまだ弱かった頃に、自分自身を守るために掴んでいようと決めたことが多いのですが、ずっとしがみついていたために、今度はそれを手放すということも恐怖の対象になってしまうようです。

そこでの問題点は、そんな恐怖心は危険を避けようとするだけでなく、私たちが、よりよくなっていくことや、何かを達成しようという積極的な意識にも、その邪魔をしようとすることなのです。
何であれ自分に変化を起こす状況を避けようとしてしまうようです。

もちろん、恐怖を感じることは、私たちが生きていくために必要なことなのですから、どんなときにも恐怖を感じるべきではないということではありません。
 
ただし、どんなときでも恐怖心に支配されてしまっていることは、自分の世界を限定することになってしまいます。

本当に必要なのは、心のなかの恐怖を支配することにあるようです。
「勇気」とは、恐怖心を無視することではなくて、何を恐れ避けることに意味があって、今、何をすることが大切なのかを感じることなのではないでしょうか。

私たちが何度も感じる恐怖のほとんどは、それを避けようとして自分が創りあげているのですが、本当は自分自身がそれを克服することを望んでいるからなのです。

それは、
「もう自分は、それを乗り越えるだけの力があるよ。もっと自分を信頼して、もっともっと成長しようよ」
という、自分自身からのメッセージなのかも知れませんね。

本当の「勇気」とは、「自分自身を信頼すること」だということのようですね。