天気予報では、降水確率が80%でした。
そこで傘を持って出かけたのですが、結局雨は降らず一日中傘を持ち歩くことになりました。
別の日、降水確率は20%程度で、天気予報では「晴れ」となっていました。
傘はいらないと思って外へ出たのですが、帰り際に大雨に降られてびしょぬれになってしまいました。
天気予報や今日の降水確率は、傘を持っていくか行楽へ出かけるかの参考にはなりますが、それを絶対的に信じていると失敗してしまうことにもなりかねません。
もっとひどい人は、たとえ外が快晴でも降水確率が90%なのだから、今日は雨が降るに違いないといって外へ出ようとしなかったり、雨が降っているのに降水確率が低いからきっと晴れると思い込んで、傘も持たずに出かけてしまいます。
バカな人もいるもんだと笑ってしまうかも知れませんが、何かを絶対的に信じ込んでいる人は、同じようなことをしていることがあるようですよ。
信頼できる人がそう言っているから。
子供の頃、そう教えてもらったから。
それでいつもうまくいっているから。
もちろん、それらのことは、きっと正しくていちばんいい道なのでしょう。
でも、いくら正しくても、いくら最高の方法でも、ときには柔軟に対応した方がいい場合もあるようです。
降水確率がいくつでも、今自分が雨に降られているかどうかということのほうが、ずっと大事なのではないでしょうか。
交差点で、横から暴走車が疾走しているのが見えたら、目の前の信号が青だったとしても、自分がちょっと止まってその車が過ぎ去るのを待った方が賢明だとは思いませんか。
いくらこちらの信号が青で、進んでいくことが正しいとしても、そんな車にひかれてケガをしてしまっては意味がありません。
正しいことが、いつも自分にとっての真実であるとは限らないのです。
これは何も、横暴な人には泣き寝入りしろとか、他人の悪事を見逃せとか言っているのではありません。
そんな暴走車は、ほおっておいてもいつかは事故を起こすでしょうし、そのままにしておくとまわりに迷惑がかかるのなら、しかるべきときに、しかるべき方法で相手の非を咎める方法はいくらでもあるでしょう。
正しい道は、もちろんすばらしいところなのでしょう。
でも、どんなときでも、その道にしがみついているとしたら、どうなのでしょうか。
そんなことにエネルギーをかけるよりも、楽しく自分の旅を続けた方がずっといいような気がします。
それでなくても人生は、矛盾だらけなのです。
何かを絶対的に信じるということは、昔の地図だけを見ながら、すっかり変わってしまった町を歩くようなもので、必ずどこかで迷ってしまうでしょう。
たとえば、日本のことわざを考えてみてください。
「善は急げ」 ←→ 「急いてはことを仕損じる」
「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」 ←→ 「石橋を叩いて渡る」
「鶏口となるも牛後となるなかれ」 ←→ 「寄らば大樹の陰」
などと、ときと場合によって、いろいろな道があることを教えてくれているようです。
結局は、何がが正しいかよりも、何が自分にとって役に立つのかが大事なようですね。
歩きにくい「正しい道」を進むよりも、ちょっとわき道にそれるとしても、
もっと楽しく歩いていける道がいくらでもあるかも知れませんよ。
そして、それこそが自分にとっての真実の道なのではないでしょうか。