この世界は、『捨てる神あれば、拾う神あり』です。

「捨てる神」とは、私たちに、不運や辛い出来事を与えてくれる神さま。
そして、「拾う神」とは、幸運や楽しいことを授けてくれる神さまです。

...実は、ある意味で考えると、本当は、この世は「拾う神」ばかりなのですが...

「拾う神」ばかりだと、その状態が当たり前になってしまって、今の自分の幸福に気づかないので、「捨てる神」があるのかも知れません。

神さまの視点から見ると、このシステムは、よくできていると言えるのでしょうが、実際に肉体を持って、この世界に生きている私たちにとっては、どうも「捨てる神」ばかりが目に付くことが多いようです。

仕事で失敗した、失恋した、人間関係で困ったことがある、信頼していた友人に裏切られた...

こんなことばかりが起こって、飛び上がるほどうれしいことなんて、めったに起こりませんね。

まったくこの世界には、「捨てる神」しかいないのかなどと思えてきたりするのです。

だけど、ひょっとしたら、「拾う神」は、いつも身近にいて、私たちに福を与え続けてくれているのかも知れませんよ。
ただ、私たちが、それに気づいていないだけなのかも。

「拾う神」は、いったいどこにいるのでしょうか?
どうして、私たちは、気づかないのでしょうか?


西洋のことわざに、こんなものがあります。


『人生にとって幸福な音が三つある。

1.夫が家にいて、静かに本を読んでページをめくる音。
2.その傍らに妻がいて、何かを作っている音。
3.その夫婦の側で、子どもが元気に遊んでいる音 』


この三つの音は、どれも、取り立てて特別な音ではありませんね。
普通に家庭を持って、生活していれば、いつも身近に感じられるものではないでしょうか。

もちろん、人それぞれ、生きている環境が違うので、この三つの音だけが幸福な音だというわけではなくて、他にも、その人にとっての幸福な音があるでしょう。

でも、その音だって、特別変わったものではなく、日常のありふれた音ということが多いでしょう。

いつも聞こえているときには気づかなかったけど、その音が、実は、最高に幸せな音だったのだと気づくときがあります。
それは、それらの音を聞くことができなくなってしまったときです。

失ってはじめて、その音こそが、自分にとってこの世界でいちばんの幸福の音だったということがわかったりするのですね。


...「拾う神」が与えてくれている、幸福の音も、同じではないでしょうか。

当たり前のように、側にあるから気づかないだけで、私たちには、いつもいつも、幸福が降り注いでいるのかも知れません。

たとえば、「今、この瞬間に、生きている」
「食べるものもあって、服だって着ることができている」

当たり前のことのように思えますが、実際には、それが許されない可能性だってあったのですよね。

それだって、「拾う神」が授けてくれた幸福の音だとは思いませんか。

そして、探してみれば、そんな音は、いくらでも見つかることでしょう。

そう、「拾う神」は、何も、特別なすごい奇跡を起こしてくれるわけではない。
ただ、当たり前のことを与えてくれている。
 
そんな感謝の気持ちを持ってみると、はじめて、「拾う神」が見えてくるのではないでしょうか。


...幸福には、翼がある方がいいのです。
 
それは、私たちの手から逃げているための翼ではなくて、どこかへ行って、もっと大きくなって帰ってくるためにある翼なのですから。