私たちが幸せを感じるのは、外側での出来事によってではなく、自分の心が幸せだと感じているかどうかによって決まるようです。

もちろん何かをやってみて結果的にうまくいったとしたら、誰でも気分がよく幸せを感じることができます。
ところが、そうでないときにはどうでしょうか。
 
何かを手に入れたり、ある状態になることが幸せの条件だと思っていると、いくらがんばってもそれを得ることができないと幸せにはなれません。
それに、がんばって手に入れたものは、がんばって掴んでいないと、いつ失うかわからないのです。
 
本当の幸せは、何かいいことがあったからとか、何かを手に入れたから感じるのものではなく、自分の心が生み出すものなのではないでしょうか。
ましてや自分以外の何かから与えられるものでもないのですよね。

生きていく上では、失敗はつきものです。
常に順調で、なんの障害もつまづきもなく、平穏に一生を終わる人など、きっとどこにもいないでしょう。
ほとんどの人は、ひとつの成功の前に何回もの失敗を体験しているのではないでしょうか。

だとしたら、その失敗の体験をどう捉えるかが本当の幸せを感じることができるかどうかのカギなのかも知れません。


たとえば、ある人が就職活動をしていたとして、最終の面接までいきましたが結局は不採用になったとします。

このとき、
「あれだけ全力を尽くしたのに不採用とは・・・やはりもっと能力のある人が採用になったんだろうな。もっと自分に力をつけなくては」と考えることもできます。

また、
「あんなにがんばったのに・・・自分はツイなかったんだ。面接官があんな質問をしたもんな。やっぱり運のいいヤツが合格するもんだね」と思うこともできるのです。

どちらも同じ結果に対する反応ですが、違っているのはその結果に対して、自分が責任を取ろうとしているかどうかということです。

もちろん面接の合否には、面接官の個人的な嗜好やその日の体調など、自分ではどうしようもないような要素があります。
だからといって、「なるようにしかならないさ」とすべてを外側に任せてしまうと、自分が幸せになれるかどうかに対しての責任も放棄することになってしまいます。

後者のような人は、きっと自分の能力を高めるよりは、どうすれば面接官に気に入られるか、どの会社が入りやすいかというところへ関心がいってしまうでしょう。
それで、うまく採用されたとしても、それが本当の幸せにつながるのでしょうか。

ところが、前者のような考え方をする人は、自分ではどうしようもないことをどうにかしようとするよりも、人生での自分の責任を取ろうというところに意識を向けるようです。

自分ができることを、精一杯やるだけです。
結果はともかく、自分がその会社にふさわしい実力を身につけようということに努力しようとするのです。

すると、採用されればもちろんラッキーですし、もし不採用だとしても面接官に見る目がなかったか、自分の力が及ばなかったかということを冷静に受け止めることができます。

遅かれ早かれ、その人は自分にふさわしい会社を見つけるでしょうし、採用不採用という結果に一喜一憂する必要もありません。

内側はいつも前向きですね。
それこそが本当の幸せだということではないのでしょうか。

そして内側の幸せは、必ず外側の現実に正直に反映されていくものなのですよね。